千葉地方裁判所 昭和30年(カ)1号 判決 1960年1月30日
再審原告 宮野小太郎
再審被告 宮野和夫 外一名
主文
原告宮野和夫(再審被告)被告千葉地方検察庁木更津支部検察官(再審被告)間の千葉地方裁判所木更津支部昭和二八年(タ)第一号認知請求事件につき同裁判所が昭和二八年八月一二日言渡した「被告は原告の父が亡宮野与左衛門なることを認知する。訴訟費用は被告の負担とする」との判決を取消す。
再審被告宮野和夫の認知の請求を棄却する。
訴訟費用は全部(昭和二八年(タ)第一号事件・昭和三〇年(カ)第一号事件とも)再審被告宮野和夫の負担とする。
事実
再審原告訴訟代理人は主文第一、二項同旨の判決を求め、その理由として、
一、本籍並びに最後の住所千葉県君津郡上総町笹四三七番地宮野与左衛門は昭和二七年五月五日死亡した。再審原告は昭和一四年二月二二日与左衛門及び同人の養女はなと婿養子縁組を為し、はなとの間に与郎、外三名の子を儲けたが、右はなは昭和二三年一月二七日死亡した。再審被告宮野和夫は本籍千葉県市原郡姉崎町姉崎二二四四番地亡相川忠吾とその妻相川つね間に昭和一一年一一月一六日出生した二男として出生届が為され同人等に養育せられて成長したが、和夫の後見人同県君津郡上総町笹一二四二番地相川勅男(亡忠吾の弟)は宮野与左衛門の死亡後、再審原告不知の間に、和夫は与左衛門とその養女はなとの間に昭和一一年一一月三日出生した子であると主張し、検察官を被告として認知の訴を提起し主文第一項掲記のとおりの認知の判決を受け、右判決は確定するに至つた。しかしながら宮野和夫は亡宮野はなが産んだのであるが亡与左衛門の子ではなく訴外亡鎌田茂との間の子であり、且右判決については以下に述べるとおり再審の事由がある。
二、再審原告は認知判決の当事者ではないが亡与左衛門と一に記載したような身分関係を有する利害関係人であるところ、かかる利害関係人不知の間に認知の確定判決があつて、その覊束を受けなければならない場合においては右利害関係人からの再審の訴を許容してこれを救済するのが至当である。このことは学者もこれを認めており、争いのないところである。よつて再審原告は本件再審の訴につき当事者適格を有する。
三、再審被告宮野和夫が前記判決を受けるために為した裁判上の手続等は次のとおりである。すなわち(イ)先ず相川つねが再審被告宮野和夫を相手方として千葉家庭裁判所昭和二八年(家イ)第七号親子関係不存在確認の家事調停を申立て同年一月二〇日和夫はつねの子でないことを確認する旨の審判を受け、これにもとづく戸籍訂正によつてつねの戸籍から和夫を除籍せしめた後(ロ)亡宮野与左衛門・亡宮野はなの法定代理人であるとして千葉地方検察庁木更津支部検察官を相手方として和夫から申立てた千葉家庭裁判所木更津支部昭和二七年(家イ)第五四号親子関係確認の家事調停事件において昭和二八年二月四日「申立人和夫は亡宮野与左衛門と亡宮野はなの間に昭和一一年一一月三日に生れた子であることを確認する。申立人の本籍を千葉県君津郡亀山村笹四三七番地に創設する」との審判を受け(ハ)該審判に基き昭和二八年三月一〇日前記裁判所から「本籍千葉県君津郡亀山村笹四三七番地筆頭者宮野与左衛門、母亡宮野はな、昭和一一年一一月三日生、宮野和夫」として就籍許可の審判を受け、一旦全員消除された宮野与左衛門の戸籍を回復せしめた上、これに亡宮野はなの男として就籍した。(ニ)しかして相川勅男が和夫の後見人となり前記認知事件を提起し同事件において右就籍した宮野和夫の戸籍抄本を甲第一号証として提出したところ、裁判所は右甲第一号証を採用し、宮野和夫の申請した証人等を取調べたのみで再審原告側の証人は一人も取調べずして前記判決を為した。
四、前項の裁判のうち(ロ)の千葉家庭裁判所木更津支部昭和二七年(家イ)第五四号親子関係確認の家事調停事件の審判は父及び母死亡後検察官を相手方として親子関係の確認を為したものであるが家事審判法第二三条はかかる手続を許して居らずその他にもこれを許した規定がないから当然無効であり、右無効の審判に基き為された(ハ)の就籍許可の審判も亦無効である。されば再審原告から再審被告宮野和夫を被告として提起した千葉地方裁判所昭和二九年(ワ)第二八一号審判無効請求事件の判決(昭和三〇年一一月二九日言渡)により右(ロ)の審判の無効であることが確認せられ又亡宮野はなの子である訴外宮野与郎外三名から再審被告宮野和夫を相手方として申立てた千葉家庭裁判所木更津支部(家)第一四三号就籍許可取消申立事件の審判(昭和三一年二月二九日附)により右(ハ)の就籍許可は取消された。しかして上総町長は右就籍許可取消の裁判により戸籍訂正を申請した宮野与郎外三名の申請を容れ昭和三一年四月五日就籍による宮野和夫の戸籍の記載を消除した。
五、しかして前記昭和二七年(家イ)第五四号親子関係確認の家事調停事件の審判をした裁判官と前記認知事件の判決をした裁判官が同一人である点にかんがみれば、右裁判官が認知事件の判決を為すに当り、右審判に基き為された再審被告宮野和夫に対する就籍許可の裁判により登載された同人の戸籍抄本たる甲第一号証により心証を形成されたことは極めて明らかである。さればこそ右裁判官は右事件の証拠調べを簡略にすまし宮野和夫の戸籍謄本すら提出せしめることなく抄本ですまし、その結果再審原告側の証人を一人も調べずして口頭弁論を終結したのである。すなわち甲第一号証の戸籍抄本の和夫とはなの身分関係及び与左衛門の戸籍に就籍する旨の記載は認知判決の基礎と為つたものと云うべきところ右戸籍抄本と不可分の関係にある就籍許可の裁判及びこれが基本となつた前記親子関係確認の審判は当然無効であり、しかも右就籍許可の裁判は前記のとおり後の裁判により取消され、右裁判による当事者の戸籍訂正の申請によつて上総町長により和夫の就籍による戸籍の記載が消除されたのであるから民事訴訟法第四二〇条第一項第八号にいう判決の基礎と為つた裁判が後の裁判又は行政処分により変更されたときに該当するものであると信ずる。
六、しかして再審原告が再審事由を知つたのは昭和三〇年一〇月二一日である。これを詳述すれば下の如くである。すなわち宮野与左衛門死亡後間もなく相川勅男から突如再審原告小太郎に対し和夫のために多額の出捐を求め、小太郎においてこれを拒絶するや秘かに前記家事審判及び認知判決を受け該判決の確定を待つて小太郎に対し速かに与左衛門の総遺産を計算して分割すべき旨を申し入れ且小太郎所有の立木につき仮処分(千葉地方裁判所木更津支部昭和二八年(ヨ)第二四号事件)を為した。よつて小太郎は昭和二九年二月右仮処分決定に対し異議申立(同庁昭和二九年(モ)第一一号事件)を為したところ審理の結果第一審、二審共小太郎勝訴の判決が下され右二審判決は確定した。なお小太郎は右認知については民法第七八六条により反対事実が主張できると思料し昭和二九年九月和夫を被告として千葉地方裁判所同年(ワ)第二八二号認知判決取消請求の訴を提記したが、その後右訴訟の不適法なることを知り昭和三〇年一〇月これを取下げた。前の訴訟は云うまでもなく仮処分を許すことの可否を中心とした争いであつて確定した認知判決を対象としたものでなかつたので認知判決の証拠関係に触れる要はなく後の訴訟は認知判決の取消を求めたもので、これ又同判決の採証の如何を問うたものでないから、再審原告において同判決の証拠関係を精査した事実はない。要するに再審原告は認知事件の当事者でないから該判決書の送達を受けず従つて再審の事由を検討する対象を欠いていたが、昭和三〇年一〇月二一日該判決書の謄本(再甲第三号証)の交付を受けて、その理由特に証拠関係を閲覧し次いで同年一一月七日甲第一号証を謄写し調査の結果前記のとおり親子関係確認の家事調停事件の審判及び就籍許可の審判の無効であることを発見したため就籍許可取消の審判及びこれに基く就籍による戸籍の消除の為されるのを待つ暇もなく同年一一月一〇日本件再審の訴を提起するに至つたのであるから、再審原告が本件再審事由を知つたのは該判決書の交付を受けた昭和三〇年一〇月二一日より早くはないのである。従つて、本件再審の訴は法定の期間内に提起されたものであることが明らかである。
七、再審被告宮野和夫は亡宮野はなと亡宮野与左衛門との間に生れた子ではなく、右はなと亡鎌田茂との間に生れた子である。右与左衛門はその生前実子を儲けたことがなく、その二度目の妻むらが昭和一〇年一二月七日死亡したため与左衛門の実妹原田うめの長女である当時東京四谷の坂西家に傭われ同家に住込中の右はなを養女として貰い受け翌一一年一月同人を引き取り同年二月二一日入籍したところ右はなにはそれ以前から鎌田茂なる愛人があつて、右養女となつた後もしばしば同人と密会した結果妊娠したので、与左衛門はその不始末を快よしとしなかつたけれども結局寛容の態度をとり、はなを東京五反田の産婦人科病院に入院させ、はなが同病院において昭和一一年一一月三日和夫を分娩するや従兄弟に当る相川静(昭和二五年七月死去)と相談の上静の伜相川忠吾(昭和二七年二月死去)及びその妻つねに一切の措置を託し同夫妻はこれを諾して和夫を引き取り夫婦間の実子として届出をすませその養育を為し後に改めて養子として貰い受けるに至つた。しかしてはなの妊娠したのは前記分娩の日から逆算して昭和一一年一、二月頃と推定されるところ当時はなは養女として与左衛門方に引き取られた直後且与左衛門の妻むらの没後幾何もなかつた上に与左衛門は明治八年五月九日生れで既に老境にあり、しかもはなとは骨肉の間柄であつて、かかる際この両者の間に非倫の関係が結ばれたものとは到底想像し難いばかりでなく与左衛門は徳操堅固むしろ「やかましや」であつたことは衆口の一致するところ又和夫が真に与左衛門の実子であるならば経済的余裕のあつた与左衛門が老後初めて知る親子の愛情として和夫を忠吾夫妻の手に放置したまま病没するが如きことはあり得ないと同時に与左衛門は相当長く病床にあつたのであるから和夫及びその周囲から何等かの申出があるべきであつたのに毫もそのことのなかつたこと等からも和夫が与左衛門の実子でないことは明らかである。
八、以上の次第につき主文第一、二項掲記のような判決を得たく再審の訴を提起した次第である。
と陳述し、再審被告検察官の主張事実は認めると述べ、
立証として再甲第一ないし第一一号証第一二号証の一、二、第一三ないし第一六号証、第一七号証の一、二、第一八号証の一ないし三、第一九ないし第三一号証を提出し、証人原田うめ(第一、二回)宮野質義(第二回)、宮野明、前田ふみ、津田フミ、座間孝雄、鳥海林三郎(第一、二回)、原田英吉、鎌田とくの各証言及び再審原告本人尋問の結果を援用し、甲第二号証の一ないし一七、再乙第一ないし第一八号証の各一、二、再乙第二一号証は不知、爾余の甲号各証及び再乙各号証の成立を認め、甲第五号証を利益に援用するが甲第一、第四、第六、第八各号証の内容は虚偽である。なお甲第二号証の九及び一一(再乙第九号証の一、同第一一号証の一と同一)の宮野与左衛門の氏名はゴム判であることに注意されたいと述べた。
再審被告宮野和夫訴訟代理人は「本件再審の訴を却下する。訴訟費用は再審原告の負担とする。」との判決を求め右が容れられないときは「本件再審の請求を棄却する。訴訟費用は再審原告の負担とする。」との判決を求め、答弁として
亡宮野与左衛門、亡宮野はなと再審原告との身分関係が再審原告が一において主張する如きものであること、再審被告和夫が亡相川忠吾とその妻つね間の子として出生届が為され同人等に養育せられて成長したこと、再審被告が検察官を被告として主文掲記のとおりの認知の判決を受けたことはいずれも認めるが、再審原告不知の間に右判決を受けたとの事実は認めない。むしろ原告の言うところに基き裁判により和夫の戸籍関係をはつきりさせることが必要となり裁判を経たものである。しかして本件再審の訴は不適法であるから却下すべきであり、仮りに適法であるとしても再審被告和夫は亡与左衛門の子に間違いないから本件再審の請求は棄却さるべきである。以下にこれを詳述する。
第一、本件再審の訴は不適法である。
(イ) 再審原告は当事者適格を有しない。
再審原告は本件認知事件の訴訟当事者でなく又口頭弁論終結後の一般又は特定承継人でない。只共同相続権に基き利害関係を有し且認知判決の確定力に覊束されるからというだけでは再審原告となり得ないものというべきである。
(ロ) 再審原告主張の事由は民事訴訟法第四二〇条第一項第八号に該当しない。
再審原告主張の三、四の事実は千葉家庭裁判所木更津支部昭和二七年(家イ)第五四号親子関係確認の家事調停事件の審判並びに就籍許可の裁判が無効であるとのこと及び裁判所が再審被告和夫申請の証人のみを取調べて本件認知判決を為したとのことを除いてその余は認める。家事審判法は凡ての家庭内の紛争は一応家庭裁判所の調停に付し、よつて審判を得べきもの(家事審判法第一七条、第一八条)と定めてあるから、再審被告和夫が検察官を相手方として調停申立を為し審判を得たのは適法である。従つて宮野和夫の就籍は無効でない。又認知判決を為すにつき裁判所の取調べた証人はいずれも再審被告和夫の申請によるものであるが、右証人中前田ふみ、鳥海いわは検察官の意向をくみ形式上再審被告和夫において申請したものである。しかして裁判所は右事件につき十分に証拠を調べた上に判決を為したものである。再審被告和夫が右訴訟において前記就籍許可により登載された和夫の戸籍抄本を甲第一号証として提出したこと及び裁判所が右甲第一号証を右判決の証拠説明中に掲げていることは事実であるが、右は和夫がはなの男として就籍した旨記載せられた戸籍抄本であつて、和夫が与左衛門の子であるかどうかに触れるものでなく、右書証により和夫が与左衛門の子であることを認めることは出来難い。されば右甲第一号証が認知判決における事実認定の基礎となつたとの再審原告の主張は当らず、甲第一号証は昭和二八年(タ)第一号認知判決の基礎となつた民事判決その他の裁判又は行政処分ではない。再審被告和夫の就籍の記載が再審原告主張の如き手続により千葉家庭裁判所木更津支部昭和三一年(家)第一四三号就籍許可取消審判に基き同年五月五日消除されたことは事実であるが、これにより和夫とはなとの事実上の親子関係が抹殺されるものでない。仮りに和夫とはなの母子関係は認められぬとしても、これは厭くまで和夫と母はなとの関係である。ところが本件認知判決は和夫とはなとの母子関係を認知した判決ではないから甲第一号証の和夫とはなとの記載欄が抹消されたからと云つて再審申立の事由とはならないことは明らかである。
(ハ) 本件再審の訴の提起については出訴期間が守られていない。
再審の訴は当事者が再審の事由を知つた日から三〇日内に提起することを要するところ、再審被告は昭和二七年九月頃再審被告和夫を養育して来た訴外相川つねと再審原告との間において和夫の籍が宮野与左衛門、はなの子として認められることが前提条件となつたので認知の判決を受け昭和二八年九月二四日その確定を待ち同月二五日入籍手続を経たものであつて、その顛末並びに和夫が亡与左衛門の相続人となつたものである旨を昭和二八年一一月一八日附書面で再審原告に通告し右は同月二一日到達した。しかして和夫は再審原告を債務者として千葉地方裁判所木更津支部に対し仮処分の申請(同庁同年(ヨ)第二四号事件)を為し申請通りの仮処分決定を受けたところ再審原告は昭和二九年二月一〇日仮処分に対する異議申立をしたが(同庁昭和二九年(モ)第一一号事件)右申立書に「然るに相手方は、はな、与左衛門の没後卒然前示調停乃至認知事件を起し申立人不知の間に前示認知等の裁判を受け該裁判が確定したものであつて、申立人は一方ならず迷惑を感じ目下対策につき考慮中である云々」と記載しているから、右昭和二九年二月一〇日以前において本件認知判決の存在及び内容を知つていたものである。従つて同日の翌日から三〇日内に再審の訴を提起すべきであつた。そうでないとしても前記昭和二九年(モ)第一一号事件の昭和二九年三月一九日の口頭弁論期日において前記異議申立書記載の事項すなわち本件認知判決の存在を知り且つその内容を熟知してこれを反駁すべく対策につき考りよしていることを陳述したのであるから、その翌日から三〇日内に再審の訴を提起すべきであつた。そうでないとしても再審原告は再審被告和夫を相手方として昭和二九年一一月二四日千葉地方裁判所昭和二九年(ワ)第二八二号私生子認知判決取消請求事件を提起し、本件認知判決の取消を求め、昭和三〇年一二月三〇日再審原告敗訴の判決があつて確定しているが、再審原告は遅くとも右訴提起の日には本件認知事件の確定判決を知り且再審原告が再審事由であると主張する事実のあることを知つていたものであるから、昭和二九年一二月二四日を以て再審の訴提起の不変期間は満了したのである。
第二、和夫は亡与左衛門の子である。
再審原告が七において主張する事実中亡与左衛門の妻むらが昭和一〇年一二月七日死亡したこと、与左衛門が実妹原田うめの長女であるはなを養女としたこと、与左衛門がはなを東京五反田の産婦人科病院に入院させはなが同病院において昭和一一年一一月三日和夫を分娩したこと、はなの妊娠は昭和一一年一月頃と推定されること、与左衛門が明治八年五月九日生れで当時満六〇歳であつたこと、与左衛門が「やかましや」であつたことはいずれも認める。与左衛門がはなを引き取つたのは昭和一一年一月であるとのこと、その以前からはなには鎌田茂なる愛人があつて右養女となつた後もしばしば同人と密会した結果妊娠したとのこと、相川忠吾及びその妻つねが和夫を後に改めて養子として貰い受けたとのことは認めない。和夫は本件認知判決の事実摘示欄に右訴の請求原因として記載せられているとおり亡与左衛門の子であり、右判決は真実を認定して認知の請求を認容したものであり、和夫は鎌田茂の子ではない。和夫を鎌田茂の子であるとなすのは訴外原田うめ等の捏造で、本件の訴訟以前和夫のことに関し相川つね、相川勅男と再審原告とが交渉を開始した当時原田うめも和夫は与左衛門とはなの子であることを認め極力解決に努力すると言明していたのに何時の間にか変節して右捏造に係ることを主張するに至つたのである(なお再審原告は右交渉において和夫側から再審原告に対し多額の出捐を求めた旨主張しているが真相は和夫の意向として貨物自動車を買いたいと云うので、与左衛門の生前の言明に基いて再審原告に相談したに過ぎない。再審原告の取得した与左衛門の財産に対比して貨物自動車一台の購入費は多額の出捐と云えない)。
以上のようであるから本件再審の訴は却下、そうでないとしても請求棄却を免れない。
と述べ、再審被告検察官の主張に対し、右主張中再審被告和夫の主張に一致しない部分は認めないと述べ、
立証として甲第一号証、甲第二号証の一ないし一七、甲第三ないし第八号証、再乙第一ないし第一八号証の各一、二、(甲第二号証の一ないし一六は再乙第一ないし第一六号証の各一、二と同一、甲第二号証の一七は再乙第一八号証の一、二と同一)、再乙第一九ないし第二一号証を提出し、証人元吉光明、相川つね、野村房子、飯塚美知江、相川勅男の各証言及び木更津支部昭和二八年(タ)第一号認知事件における証人宮野質義(第一回)、相川永次郎、相川つね、前田ふみの各証言を援用し、再甲第一二号証の一、二、同第一三号証は不知、その余の再甲号証全部の成立は認める、再甲第一ないし第四号証、第二九号証を利益に援用すると述べた。
再審被告検察官は再審原告の請求どおりの判決を求める。再審原告の主張事実は全部認める。再審被告和夫の主張は不知であるが再審被告検察官の主張は次のとおりである。
一、木更津支部検察官は本件認知事件の被告となり請求棄却の判決を求めたが亡与左衛門亡はなの遺族が現存すること及び与左衛門が多額の相続財産を遺したことについては右訴の請求原因、甲第一号証その他の書証・証人の証言から毫も知らされず従つて何等反対の証拠を提出することができずして敗訴した。
二、その後宮野和夫より宮野小太郎に対し公私文書偽造行使罪等の告訴が為され又宮野小太郎より本件認知訴訟の和夫訴訟代理人佐久間弁護士等に対し偽証罪の告訴が為されたので検察官として鋭意取調べに従事したが、その結果は次のとおりである。
(イ) 和夫が与左衛門の子であるという証拠は遂に得られなかつた。
(ロ) 与左衛門は若い時尿道から血の出るようなひどい花柳病を患つたことがありそのため子供が出来ないと自ら確信していた(妻との間に一度も子を儲けたことはない)。尤も与左衛門に子を持つ能力が絶対になかつたという専門医の診断はない。
(ハ) 亡宮野はなは東京都四谷区愛住町阪西利八郎方に女中奉公中満洲部隊に入隊中の兵隊鎌田茂と文通し、満洲の絵葉書及び茂の兵隊姿の写真まで送つて貰つていた事実及びはなは与左衛門の養女となり昭和一〇年一二月下旬か翌年一月上旬頃与左衛門方に引き取られたものであるが、その後も買物のため上京し阪西家に電話をしたことがあり、当時鎌田茂は郷里安房郡田原村に居住していた事実が判明した。尤もはなと茂との間に情交関係があつた証拠は得られなかつた。
要するに二〇年以上も経つており関係者である与左衛門、はな、鎌田茂等が死亡しているので全部を究明し得なかつたが、以上(イ)ないし(ハ)の如き事実が明らかとなり且再審被告和夫側が再審原告に秘密で本件認知判決を受けたこと及び右判決の基礎となつた甲第一号証が再審原告主張の如きものであることが判明した以上検察官として再審原告請求どおりの判決あらんことを申立てるのが至当と信ずる次第である。
と述べ、再甲第一二号証の一、二、第一三号証は不知、爾余の再甲号各証の成立は認める、甲第二号証の一ないし一七及び乙第一ないし第一八号証の各一、二、第二一号証は不知、爾余の甲号及び再乙号各証の成立は認めると述べた。
理由
再審原告が昭和一四年二月二二日本籍並びに最後の住所再審原告主張のとおりである宮野与左衛門及び同人の養女はなと婿養子縁組を為し、はなとの間に与郎外三名の子を儲けたこと、右はなが昭和二三年一月二七日死亡し与左衛門が昭和二七年五月五日死亡したこと、再審被告和夫は亡相川忠吾とその妻つね間の子として出生届が為され同人等に養育せられて成長したが与左衛門の死後和夫の後見人相川勅男が検察官を被告とし和夫は与左衛門とその養女はなとの間に昭和一一年一一月三日出生した子であると主張し認知の訴を提起し主文掲記のとおりの判決を受け、これが確定したことは右事実が当事者間に争いがないことにより認められる。
第一、よつて右確定判決に対する本件再審の訴の適否につき判断する。
一、再審原告は本件再審の訴につき当事者適格を有するか。
認知判決の効力が第三者に及ぶことは勿論であり、再審原告小太郎は亡与左衛門の養子としてその相続権を有し、再審被告和夫が右判決の効力により亡与左衛門の子になるかどうか従つてその相続権を有するようになるかどうかについては利害関係を有しており、その利害関係は本件認知訴訟の被告である検察官の有する利害関係よりも直接且重大であると云わなければならない。そうとすればかかる利害関係を有する再審原告小太郎は前訴訟の当事者ではないけれども、それ等のものと同様に確定した認知判決に対し取消を求める機会を与えられるのが至当であるから、独立参加の形式を以て原判決の当事者を共同被告として再審の訴を提起し得るものと解するのが相当である。よつて再審原告小太郎は本件再審の訴につき当事者適格を有するものと云わなければならない。
二、再審の事由は存在するか。
成立に争いのないことにより真正に成立したと認める再甲第一号証(甲第一号証と同一)ないし第五号証、再甲第八ないし第一一号証、甲第三号証、甲第七号証、甲第八号証及び弁論の全趣旨を綜合すれば(一)再審被告和夫は亡相川忠吾とその妻つねの間に昭和一一年一一月一六日生れた二男として戸籍筆頭者亡相川忠吾の戸籍に登載されていたが、戸籍上親権者となつている相川つねは母でなく昭和二七年一二月一七日親権を行うものがないため後見が開始したとして同月一八日君津郡上総町(当時亀山村)笹一二四二番地相川勅男が後見人に就職した上、相川つねから和夫(後見人相川勅男)を相手方として千葉家庭裁判所に同庁昭和二八年(家イ)第七号親子関係不存在確認の家事調停を申立て同裁判所から家事審判法第二三条に則り「相手方相川和夫は申立人相川つねの子でないことを確認する」との昭和二八年一月二〇日附審判を受け、右審判に基く戸籍訂正により亡相川忠吾の戸籍から除籍せられたこと、(二)右除籍以前に相川和夫(後見人相川勅男)から「相手方亡宮野与左衛門、相手方亡宮野はな、相手方両名は死亡に付法定代理人千葉地方検察庁検事荒井道三」に対し千葉家庭裁判所木更津支部昭和二七年(家イ)第五四号親子関係存在確認の家事調停を申立ててあつたところ、右木更津支部は昭和二八年二月四日家事審判法第二三条に則るとして「申立人は相川忠吾、同つねの子でなく亡宮野与左衛門と亡宮野はなとの間に昭和一一年一一月三日生れた子であることを確認する。申立人の本籍は千葉県君津郡亀山村笹四三四番地に創設する」との審判を為したが、右審判は就籍許可の審判としての形式及び要件を備えていないので、右審判によつては和夫は亡宮野与左衛門を筆頭者とする戸籍に就籍することが出来なかつたため、相川勅男は出生立合者と称して和夫は亡宮野はな男として亡宮野与左衛門の戸籍に登載せらるべき旨の出生届出を為したところ当時の亀山村長は誤つてこれを受附け全員除籍のため消除されていた亡与左衛門の戸籍を回復した上届出の趣旨に添う記載をしたこと、(三)しかし間もなくその手続の過誤が発見されたため改めて宮野和夫から木更津支部に対し、前記同庁昭和二七年(家イ)第五四号親子関係存在確認事件の審判に基き「本籍千葉県君津郡亀山村笹四三四番地筆頭者宮野与左衛門母亡宮野はな、宮野和夫昭和一一年一一月三日生」として就籍することの許可を求め昭和二八年三月一〇日附をもつてその旨の許可を得たこと、(四)右就籍許可の審判を得たので宮野和夫は前記誤つた出生届を消除することにつき裁判所の戸籍訂正の許可を受けた上昭和二八年四月一四日右記載の消除を受けるとともに同日前記就籍許可による就籍の届出を為し亡与左衛門の戸籍を回復せしめた上これに前記許可どおりの就籍の記載を為さしめ更に相川勅男は「昭和二三年一月一七日親権を行う者がないため昭和二八年四月二一日後見人に就職」したとして同月二八日届出を了したこと((一)に記載した後見人就職との関係は解らない)、(五)以上で認知訴訟の準備は完了したとして再審被告和夫(後見人相川勅男)は同年五月八日本件認知の訴を提記し認知判決の確定するまで、相川勅男は再審原告の近所に居住しながら、再審原告には秘密で訴訟を進めたが、右訴訟において再審被告和夫は前記就籍の届出により登載された和夫の戸籍抄本を甲第一号証とし、前記木更津支部昭和二七年(家イ)第五四号親子関係存在確認事件の審判書を甲第八号証としてその他の書証(甲第二号証の一ないし一七、甲第三ないし第七号証)と共に提出し、証人宮野質義、相川永次郎、相川つね、前田ふみの各証言を援用したところ、裁判所は認知判決において右甲第一号証と甲第三号証(亡相川忠吾を筆頭者とする戸籍謄本)甲第四号証(昭和二七年(家イ)第五四号事件における証人相川つねに対する尋問調書)と証人相川つねの証言を綜合して和夫が宮野はなから昭和一一年一一月三日出生した成熟児であることを認定し、甲第一号証と甲第二号証の一ないし一七(宮野はな名義の手紙、但し第二号証の九及び一一は宮野与左衛門名義)、甲第三、四号証、甲第六号証(昭和二七年(家イ)第五四号事件における証人相川ちように対する尋問調書)及び証人相川つね、相川永次郎、宮野質義の各証言を綜合して与左衛門が昭和一一年一月から二月頃迄はなと情交を結びその結果はなが和夫を懐妊するに至つたとのことを認定していること及び甲第八号証は証拠として採用されていないことがそれぞれ認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。
よつて右甲第一号証が認知判決のなされるにつき如何なる意味をもつていたかを研究しなければならないのであるが、甲第八号証は本件認知判決を為したと同一裁判官により同一事項につき裁判された審判書であるのにどうして認知判決において証拠として採用されず甲第一号証が証拠として採用されたのであろうかを考えて見る。元来前記昭和二七年(家イ)第五四号親子関係存在確認事件は父母死亡後検察官を以て亡父母の法定代理人であるとして家事審判法第二三条に基く審判を求めたものであるけれども、右の如き手続は同条には勿論、家事審判法、人事訴訟手続法、その他の法令にこれを許した規定がないから許容すべきではなかつたのに裁判所が誤つて申立どおりの審判を為したもので無効である。従つて右審判に基く就籍は裁判所として許可すべきでないのに拘らず裁判所は漫然昭和二八年三月一〇日附を以て申立どおりの就籍を許可したのであつて、右就籍許可の審判は無効の審判に基きなされたもので、これ又無効と云わざるを得ない。しかしながら本件認知判決当時右親子関係存在確認事件の審判無効であることはまだ問題になつていなかつた。そのことは右審判書が甲第八号証として提出されたこと自体が示している。たゞ右審判の主文の末項の「申立人(宮野和夫)の本籍は君津郡上総町笹四三四番地に創設する」との審判が就籍許可の形式要件を備えず右審判によつては就籍することが出来なかつたことは先に言及したとおりであつて、つまり右甲第八号証の審判書は大なる瑕しを含むものであることが当時においても明らかであつた。しかるに右甲第八号証の審判に基き他の家事審判官(再甲第五号証により明らかである)により正当に宮野和夫の就籍が許可され(と当時思つていたことは弁論の全趣旨により明らかである)、右許可の結果登載されたのが甲第一号証である。こう見てくると認知判決を為した裁判官は瑕しある甲第八号証のかわり瑕しのない審判により登載されたと信じた甲第一号証を事実認定の証拠として採用したものと云うべく、以上説明した甲第一号証と甲第八号証の関係から、甲第一号証の和夫の父欄は空白ではあるが和夫が与左衛門の戸籍に就籍したそのことが(そのため相川勅男が如何に苦心したかは上に認定するとおりである)右裁判官の事実認定の心証を形成するに大いなるはたらきを為していることを推認することを得べく、このことは甲第一号証の与左衛門の除籍の事項欄に「本籍で死亡同居の親族宮野小太郎届出、同月七日受附除籍」と明記されているのに、右裁判官がこれを看過し宮野小太郎につき職権証拠調べを為すことなくして口頭弁論を終結して認知判決を為していることにも明らかに示されている。しかして同裁判官が甲第一号証がなくても同一の裁判を為したであろうかどうかは結局のところわからない。
ところで甲第一号証は就籍許可の審判書そのものでないこと勿論であるが就籍許可の審判により戸籍吏が右審判により許可されたとおりに記載したものであつて、右審判と甲第一号証の記載とは密接不可分の関係にあるから裁判官が甲第一号証を事実認定の証拠に供したことは、就籍の審判により事実認定を為したということに外ならないところ、民事訴訟法第四二〇条第一項第八号の規定と同項の第五ないし第七号の規定とを対照して見るときは、第八号に民事若しくは刑事の判決その他の裁判が判決の基礎となつたとは原判決に対しその裁判が拘束力を持つ場合のみならず、裁判官がその裁判により事実認定をし右事実に基き原判決を為している場合をも包含するものと解するのが相当である。そうとすれば前記就籍の審判は本件認知判決の基礎となつたものと云うべきところ前記再甲第九号証に依れば右審判は前記の如き瑕しを有し結局昭和三一年二月二九日千葉地方裁判所木更津支部家事審判官により取消されたことを認め得るから本訴再審の訴については民事訴訟法第四二〇条第一項第八号所定の事由があるものと云わなくてはならない。
三、本訴については出訴期間が守られているか。
本件再審の訴提起の日が昭和三〇年一一月一〇日であることは記録上明らかであるところ本件認知判決の基礎となつた就籍の審判が取消されたのは昭和三一年二月二九日であることは前段に認定するとおりである。そうとすれば本件再審の訴の提起につき出訴期間が守られていることは多言を要しない。
第二、再審被告和夫が亡与左衛門の子であるとの事実は認めることができるか、
証人原田うめ(第一回)、野村房子の各証言と弁論の全趣旨を綜合すれば再審被告和夫は昭和一一年一〇月二八日成熟児として東京都品川区五反田(旧称)の小杉産科婦人科病院において与左衛門の実妹原田うめの長女で与左衛門の養女となつた宮野はなから生れた事実が認められる。(再審原告も再審被告和夫も共に出生の日を昭和一一年一一月三日であると主張しているが原告うめの証言により上の如く認定すべきものとする。)右出生の日から逆算してはなが和夫を妊娠したのは昭和一一年一、二月頃であるというべく、この点は当事者間にも争いがない。
しかして再審被告和夫は父親は与左衛門であると主張し、再審原告は和夫の父親は与左衛門にあらずして訴外鎌田茂であると主張し、再審被告検察官の主張はやや明瞭を欠くが結論としては与左衛門の子と認むべきではないというに帰着する。
よつて審究して見るのに(一)証人宮野明、野村房子の各証言及び当事者間に成立に争いがないので真正に成立したと認める再甲第一九号証、同第二一号証を綜合すればはなが和夫を妊娠するや、与左衛門ははなに出産をさせる為めはなをつれ、昭和七、八年頃まで住んでいた北海道の財産を整理して来ると称し昭和一一年八月頃千葉県君津郡上総町(旧亀山村)笹四三七番地の住所を出発し、東京に赴き前記病院において出産をすまし同年一二月初旬住所に帰つて来たこと、その間はなが出産のため前記小杉病院に入院中与左衛門は他のところに宿泊していたが朝から晩まで病院に来てはなに附添つて居り、且立派な蒲団等をはなのために買入れ和夫の出産祝を盛大になす等のことをしたため同病院の看護婦等は与左衛門は所謂旦那で、はなはその妾であると思つていた事実を認めることが出来、(二)証人宮野明、前田ふみ(第二回)の各証言及び当事者間に成立に争いがないので真正に成立したと認める再甲第三一号証に依れば、共に独身である与左衛門とはなが与左衛門住家の奥の同一座敷において就寝した事実を認めることが出来る(尤も寝室が同一であつた時期は右証拠で明らかでない。従つて昭和一一年一、二月頃寝室が同一であつたとの事実は右証拠その他本件証拠により明らかにされない)。右(一)(二)の事実に証人相川永次郎、相川つね(第一、二回)、元吉光明、相川勅男、飯塚美知江の各証言当事者間に成立に争いがないことにより成立を認める再甲第二九号証を綜合すれば、和夫は与左衛門とはなとの間の子であることを認め得るように見える。しかしながら(三)冒頭に認定したように、はなは与左衛門の実妹原田うめの長女である。しかも真正に成立したものと認める再甲第一一号証、同第一九号証、同第二二号証及び証人宮野質義(第二回)の証言を綜合すれば昭和一一年一、二月当時与左衛門は満六〇才、はなは満二〇才であつたこと、昭和一〇年一二月七日に与左衛門の妻むらが死亡したが、東京四谷の坂西家に住込女中として傭われていたはなが与左衛門の養女となることに決定されたのは右むら死亡の頃であり、はなが実際与左衛門方に引き取られたのは昭和一〇年一二月中頃であつたこと及びむら死亡のため会葬した親族の者が四九日のすむまですなわち一月二〇日過ぎまで相当数同家に残つて泊つていたことを認めることが出来、(四)証人宮野質義(第二回)原田うめ(第一、二回)、鳥海林三郎(第一、二回)の各証言を綜合すれば、与左衛門は若い時は素行が修らずひどい花柳病に罹つたことがあること、前妻と生別して前記むらと結婚したのであるが二人の妻との間に一度も子が出来なかつたこと及び与左衛門は妻との間に子の出来ないのは花柳病に罹つたためであると信じて居り若い者に女遊びを慎しむようによく忠告していたことを認めることが出来、(五)証人座間孝雄、鳥海林三郎(第二回)の各証言に依れば与左衛門は若い時に北海道に渡り相当大きな財産を作つた上昭和七、八年頃郷里に帰つて来て極めて裕福に暮して一生を終つた者であるが郷里に帰つて来てから死ぬまで妾を置くとか女で失敗した等のことは一度もなく又相当気前もよく、他人の面倒も極めてよくみたことを認めることが出来、(六)証人原田うめ(第一、二回)、鳥海林三郎(第二回)、宮野質義(第二回)、再審原告本人尋問の結果を綜合すれば与左衛門ははなの妊娠中から同人に婿をとることを考え、出産後間もなくである昭和一二年二月中再審原告と結婚の式を挙げしめたこと、しかもその後与左衛門、はな並びに再審原告、三者の間に家庭紛争が起つたことがなく、はなの死亡するや与左衛門は再審原告のためはなの妹つねを後妻として貰い受けるにつき、大に尽力していることを認めることが出来、(七)証人鳥海林三郎(第二回)、宮野質義(第二回)の各証言及び再審原告本人尋問の結果に依れば与左衛門は昭和二七年五月五日死亡する前一年近くも中風で寝たり起きたりして居り、且その間頭は確かりしていたのであるのに、相川勅男ないし相川つねから与左衛門に対し和夫の認知ないし同人に対する財産分与のことを何等申出でず、与左衛門死亡後の昭和二七年九月末頃に至つて初めて相川勅男から再審原告に対し和夫ははなの子であるから貨物自動車一台を買う資金として六〇万円を出して呉れと申出でたがその際和夫が与左衛門の子であるとの主張は相川勅男から毫も為されなかつたことを認め得べく、証人相川つね(第二回)、元吉光明、相川勅男の各証言中右認定に反する部分はたやすく措信し得ない。更に(八)証人鎌田とくの証言、再審原告本人尋問の結果、前記再甲第二二号証及び以上の証拠により宮野はなが所持していた写真帳及びこれに貼つてある訴外鎌田茂の写真であることを認め得る再甲第一二号証の一、二、鎌田茂から宮野はな宛の開封の通信であることを認め得る再甲第一三号証、当裁判所が真正に成立したものと認める再甲第一五号証、同第二七号証を綜合すれば宮野はなは前記の如く与左衛門方に養女として引き取られる前に東京四谷の坂西家に女中として傭われていたものであるが、その頃はなの出生地たる安房郡田原村出身で満洲部隊に入隊していた青年鎌田茂と文通し絵葉書や兵隊姿の同人の写真まで送つて貰つて大事にしていたこと、鎌田茂は昭和九年中に召集解除となり田原村に帰り昭和一三年死亡したものであつて昭和一一年一、二月頃ははなの出生地に居住していたことを認めることが出来るのであつて、右(三)ないし(八)の事実及び証人宮野質義(第二回)、宮野明、座間孝雄、鳥海林三郎(第一、二回)、原田うめ(第一、二回)、鎌田とくの各証言及び再審原告本人尋問の結果と対照するときは前記証人相川つね(第一、二回)、相川永次郎、元吉光明、相川勅男の各証言中和夫が与左衛門の子であるとの部分はたやすく措信し難く、右各証言と前記(一)(二)の事実及び証人飯塚美知江の証言を綜合して和夫の父が与左衛門であるとの事実を認定することに躊躇を感ぜざるを得ない。なお証人鳥海林三郎の証言により甲第二号証の九及び一一(再乙第九号証、第一一号証の各一、二と同じ)は宮野はなの記載に係ることを認めることが出来るから右書証によつても右事実を認定することは出来難く、その他本件証拠を以てしては事実を確認することが出来ない。
よつて再審被告和夫が亡与左衛門の子であることを認定し、認知をなすことが出来ないから主文掲記の判決を取消し、再審被告和夫の請求を棄却すべきものとし、訴訟費用につき民事訴訟法第九六条を準用し、同法第八九条、第九三条、第九二条を適用し主文のとおり判決する。
(裁判官 内田初太郎 田中恒朗 遠藤誠)